日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

この方は何をそう怒っているのだろう

この文章はTBSラジオ『Life』のリスナーに向けて、そして"POP2*5"に向けて書かれている。


わたしは前にも書いたがTBSラジオ『Life』のリスナーで、毎月楽しみに聞いている人間である。そういう人間だから"POP2*5(ポップにーてんご)"のエントリ「社会学者・鈴木謙介についてつぶやいてみる」はちょっとひどいな、と感じた。
文章が非常に攻撃的で、Twitter界隈で見受けられる(と、わたしはそこまで知らないが)なれあった感じやら、その内輪感への嫌悪感やらが、鈴木謙介に対して収れんしていくように書かれている。タイトルで“つぶやいてみる”とか言いながら、その文章自体が“つぶやき”というにはあまりにも長い(もともと長文を書く人ではあったが)。一読して、鈴木謙介に対して同族嫌悪を抱いているのではないか、とも思った。印象論をただの印象論と思わせないよう論理武装している内に冷静さを欠いてしまったというか。
153もゲットしたブクマのコメントの一つに、彼はこんな返答をしている。

ブクマのコメント
秋葉の件とか印象論が過ぎるぞ。これならどっちが無責任かわからん。どうせなら出してる本を批判しろよ。こんな社会学者としての副業で上げ足とっても生産性ゼロだな。チラシの裏にでも書いとけ
その返答
鈴木謙介の仕事を批判しているのではなく、印象論からブキミだとつぶやいているエントリに噛みつかれても。仕事の批判ならウォッチャーがやるだろ。オレはウォッチャーじゃない立場から書いている(文責は無論、自分にある)。「無責任」「生産性ゼロ」「チラシの裏」って……ブログって本来、メディアに出てこないような取るに足らない個人的の思いを発信するもんじゃないの。「鈴木の副業で上げ足とっても」っていうんなら、こっちも「本業じゃない個人の余暇でやってるブログの上げ足とっても」と言い返すしかない。

まあブクマのコメントにいちいち返答するのも大変だとは思うが「印象論からブキミ」だという話をああも長々と書かれると、ちゃんと仕事の批判をされるより本人もファンも気分は良くないし傷つくだろうことが、この方にはわからないのだろうか。何故この人は「鈴木謙介の声はキモイ」のひと言で済ませられなかったのか。また、この後のコメントへの返答の中には「通りすがりから見た」という表記があるけれど「通りすがり」でこんな分量を書き込むのも礼を欠いている。それこそ編集者で書き手でもあるのなら、内容に適した文章量というのがあってしかるべきだとわかりそうなものだが。
たぶんこの方は、鈴木謙介ーLifeーTwitter界隈に代表されるような雰囲気が嫌だ、というただそれだけなんだろう。まあそれはそれで、仕方のないことであるし、まあわからないでもない。


大体このチャーリーこと鈴木謙介というのは本当に得難いキャラクターで、30代にもなってまだ中二病的振る舞いをしてしまえるというのがもう既に才能である。中学高校生のように発言やら態度やらが自意識過剰で、そのくせ日本や海外の社会学的知見を持っているというのだから、そのアンバランスたるや年長者にとってこれほど叩きやすい人材もまたとない。何せチャーリーこと鈴木謙介にはその番組名が「Life」だというのに「人生の重み」って奴が全然感じられない。それは鈴木と同年代のサブ・パーソナリティである津田大介斎藤哲也森山裕之のしゃべり方、声の感じと比べればよくわかる(特に津田大介なんか、Lifeに出演している時のチャーリーに対する態度が微妙で素敵だ)。大体わたしには鈴木謙介が結婚しているというのが俄に信じられない。
とはいえメイン・パーソナリティとしての鈴木謙介は大したもので、外伝などで別のパーソナリティーが進行を務める回と比べると、相手の話のまとめ方は上手いし(さばくまではいってない気がする)、鈴木の方が上手だと感じる。
たぶん鈴木には、年長者から見れば「そんな他愛もない」「あと10年年を取ればわかるよ」と言いたくなるような青臭い(幼い)内容を、何とか「普遍的」といっていいような言葉に翻訳して、無関係の人にも流通させようという意志がある。それぞれの分野における「問題」を、その分野の固有性(内輪性)から解き放って、他の分野にも潜まれているだろうより大きな・広範な「問題」→時代の空気へと変換し流通させたいという意志があるはずだ。各分野がそれぞれ専門的になりすぎ、総合的な視野に立つことが出来なくなっているという、いわゆる「タコツボ化」の問題について、鈴木は相当意識的なんじゃないのか、と思う。
それは多分、彼が他者と言葉を交わし、交流せざるをえない「演劇」をやっていたからじゃないかと、わたしは思っている。
よく話すネタなのだけど(元々は鈴木忠志蜷川幸雄が言っていた言葉だと思う)演劇には、絵画や音楽などのように「狂人の天才」は存在しない。それは演劇が、他者との交流の中で生まれる芸術だからである。
たぶん鈴木謙介も演劇との関わりの中で、そういう交流の必要性を(自らが上手くフィット出来なくても)知ったのではないか、というのがわたしの読みだ。会話の通じなさそうな相手に対しても会話を試みること、そこで個々の問題を共通の問題へ翻訳していくこと。そういうことが今は大切なのじゃないか、と鈴木はきっと思っているし、わたしなんかも思うのだが、どうだろう。褒めすぎかしらん。


ただ、時々思うことがある。「Life」という番組は、チャーリーの成長物語、ビルディング・ロマンスなんじゃないかと。