日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

極私的な「しろいうさぎとくろいうさぎ」の話

しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ)

しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ)

たぶん誰もが一度は誰かに読んでもらったり、自分で読んだことのある絵本である。一度、誰かが結婚した時に送ったような気がするのだが、それが誰だったのか思い出せない。もしかしたらただ、そういう記憶をいつか捏造していたのかも知れない。
「ピュア」という言葉を思い出させる、そんな絵本だと思われている。それは間違いではないけれど、ただそれだけの絵本ではない。僕にとっては。


ぬいぐるみのような二匹のうさぎたちは、朝靄の中で起き上がり、いっしょに遊び始める。けれどもくろいうさぎはふいに遊ぶのを止めて、ふさぎこんでしまう。
「ぼく、かんがえごとをしているんだ」
そのことばと、その悲しげなくろいうさぎの目に、はじめて読んだ時から心を奪われてしまった。くろいうさぎに自分を重ねてしまった。
すぐにふさぎこんでしまうくろいうさぎに、しろいうさぎは問いかける。


「ぼく、ねがいごとを してるんだよ」
しろいうさぎは、めを まんまるくして、じっとかんがえました。
そして、「ねえ、そのこと、もっといっしょうけんめい ねがってごらんなさいよ」と、いいました。
くろいうさぎも、めを まんまるくして、いっしょうけんめいかんがえました。
そして、こころをこめて いいました。
「これからさき、いつも きみといっしょに いられますように!」


くろいうさぎが、ふたりの終わりを思わずにはいられないその理由として、次のような公式見解がある。この絵本は原題を"The Rabbits’ Wedding"といい、アメリカで発表された1956年はまだ公民権運動などなく、「くろ」と「しろ」、すなわち黒人と白人とが「これからさき、いつも きみといっしょに いられ」ることなどありえない世界だったのだ、と。そういった人種問題を背景とした絵本なのだ、と。
大人になってそのことを知った時に「ああ、何て深い意味をもった絵本だろう」とは思わず、そう思ってしまう事で、今も世界中で愛され読み継がれている、この絵本の持つ広がりを、自分の中から失わせてしまうなと自戒した。


純粋な気持ちが、ただそれだけで成り立っていた世界に今もくろいうさぎがいたのなら、こんな悲しい目はできない。
純粋な気持ちは止まらない時間の中で当然のように叩かれ、打たれ、ボロ切れのように打ち捨てられた。
キミト イッショニハ イラレナイ
その「痛み」をやりすごし日々の常だと受け入れる事が出来ず、君と遠い昔そうであったように「これからさき、いつも きみといっしょに いられますように!」と祈らざるを得ない、そのもう一つの「痛み」。
そんな、くろいうさぎの目に見出された二つの「痛み」を、どうしても誰かを求めてしまう「痛み」と、そこから受けるだろう「痛み」を、自分にとっては「痛み」を伴わない「人種問題」として矮小化したくなかったというのが、ひどく個人的な理由だった。
だから僕には、その後に続く楽天的なしろいうさぎの言葉と、彼女の白い手とくろいうさぎの手が重ね合わされた絵が、奇跡のように美しい。祈りは受け入れられたのだ。*1
そして誰もが、このページの次に続く「森での結婚式」でうっとりとしてしまう。ハッピーエンドだとまどろんでしまう。
それでも、もしこの絵本を読む機会があったなら、その次の、最後のページを読んでほしい。


見開き2ページの左隅に寄り添って、やや上向きに右前方の彼方を見るふたりの目は、ぬいぐるみのように描かれたそれまでのふたりとは異なり、とても厳しい。「しろいうさぎが妊娠しているからだ」という見解もあるようだが、僕はそうとらない。
その視線は、横開きのページでの右側、すなわち物語の進行方向へ、いわば「未来」へと注がれている。
そのまなざしの強さは「未来」に向けた「決意」のそれだ。純粋な気持ちを持ち続けようと決めたふたりの「決意」が、そうさせまいとする「未来」に向けられた、その厳しさ故なのだ。


だれもきっと、この絵本をそんな風には読んでいないみたいだから
「ぼく、かんがえごとをしているんだ」

*1:最後の一歩を踏み出させるのはその楽天性だろう……と、やわらかに幼心を年齢と引き換えに失っていく大人になら、わかってもらえるだろうか。