日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

女たちへ

たとえば、こんな女性の詩に、俺はめろめろしてしまう。

わたしが一番きれいだったとき(茨木のり子


わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした


わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった


わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった


わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った


わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた


わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった


わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった


だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

どんな女性でも「自分が誰よりも美しい」とそう思えた、宝石のような瞬間を胸にしまっていると想像する。
「ホモの絵柄は好まないがレズのそれは観賞さえ出来る」というのは男性にも女性にも通じる心理一般だろうが、その程度には私だって女性を何よりも好ましいものと見ている。極端にいえば「女性は女性であるだけで素晴らしい」となるのだが、それはその造形的な美しさ、魅力的な声は勿論のこと、ナチュラルなそのナルシシズムによるのだろう。
この茨木のり子の詩には、そんな女性の美しさが愛らしく表現されていて、本当にいいなあと思う。知る人ぞ知るシャンソンの名曲の、日本語訳のようにも思える。
あと、女性がその女性らしさを朗らかに肯定している詩を、同じく茨木のり子の作品から。

あぼらしい唄(茨木のり子


この川べりであなたと
ビールを飲んだ だからここは好きな店


七月のきれいな晩だった
あなたの坐った椅子はあれ でも三人だった


小さな提灯がいくつもともり けむっていて
あなたは楽しい冗談をばらまいた


二人の時にはお説教ばかり
荒々しいことはなんにもしないで


でもわかるの わたしには
あなたの深いまなざしが


早くわたしの心に橋を架けて
別の誰かに架けられないうちに


わたし ためらわずに渡る
あなたのところへ


そうしたらもう後へ戻れない
跳ね橋のようにして


ゴッホの絵にあった
アルル地方の素朴で明るい跳ね橋ね!


娘は誘惑されなくちゃいけないの
それもあなたのようなひとから

こういう女性にぐっと来ないような男ではいけない。是非この詩を熟読妄想した後萌えていただきたい。
たとえ誘惑の術を持ち合わせていなくても、しかも自分が「あなたのようなひと」なのかどうかもわからないまま、旭川駅前で唐突に全裸になるようなこっ恥ずかしさに堪えながら、男達は娘を誘惑しなくてはいけないのだよ、最後の二行を胸に抱いて。頑張れ男。もしその恋が破れたら、酒でも飲もう。つきあうぜ。
(photo by Paul Thomas)

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

おんなのことば (童話屋の詩文庫)