日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

珈琲を淹れてきます

掟の門の前で

今しばらくお待ち下さい。

 掟の前に一人の門番が立っている。その門番のもとへ、田舎から一人の男がやってきて、掟の中へ入れてくれるよう頼む。ところが門番は、今は中へ入れられないと言う。男は考え、それでは後でなら入れるようになるのかと尋ねる。


「おそらくな。ただ、今はだめだ。」と門番は答える。


 そのとき門はいつものように開いている。そして門番は脇へ寄り、男は門から中が見えるように身をかがめる。門番はこれに気づき笑う。そして言う。


「そんなに興味があるなら、おれが止めるのは無視して、中へ入ろうとするがいいさ。ただ覚えとけよ。おれは強い。そして、一番下っ端の門番に過ぎない。しかし広間ごとに門番がいて、そのどれを取ってもそれまでの奴より強い奴ばかりだ。もう三番目の奴を見ただけでも、おれはとても耐えられんよ。」


 田舎から来た男は、それほど厄介だとは思っていなかった。掟はいつでも万人に開かれているべきだと男は考える。しかし、毛皮の外套を身に纏い、尖った鼻と黒の長細い蒙古髭を生やしたこの門番をいましっかり見て、その男は入る許可をもらうまで待ったほうがいいと決心する。門番は男に腰掛をあてがい、門の傍らに座らせる。


 男はそこに何年も座っている。男は入れてもらえるように様々な手を尽くし、お願いして門番をうんざりさせる。門番はよくささいな尋問を男にし、故郷や他の色々なことについて問いただすが、それは興味のなさそうな質問であって、まるで偉人が質問するときのようである。そして結局は、まだ入らせるわけにはいかない、と門番はいつも繰り返すのである。男はたくさんのものを旅で携えて来ていたが、どれほど高価なものであれ、門番を買収するために使い果たしてしまう。この門番はすべて受け取りはするが、受け取るときに言うのである。


「おれはお前が何かやり残したと思わないように受け取るだけだ。」


 男は長年のあいだ、ほぼひっきりなしに門番を観察している。他の門番のことはすっかり忘れ、男にはこの最初の門番だけが掟の中へ入る障害のように映る。最初の数年は思慮なく大声で、のちに年を取ってからはぶつぶつ独り言を言っては不運を呪う。男は子供じみてくる。長年の観察から、毛皮の襟についた蚤も見分けられるようになった。男は門番の気持ちを変えるのを手伝ってくれるよう、蚤にまでお願いする。とうとう視力が弱り、男には本当に暗いのか、ただ目の錯覚に過ぎないのか分からない。ところが、いま暗闇の中に一筋の光が見える。その光は掟の門から消えることなく現れてきている。もはや男はそう長くはない。死を前にして、男の頭の中にこれまでの一切の経験が一つの問いとなってまとまる。これまで門番に尋ねたことのない問いである。男は手を振って門番に合図する。硬直したからだをもう起こすことができないのだ。門番は深くかがまなければならない。というのも、男がとても不自由になるくらい、大きな違いがあったからだ。


「まだ何を知りたい。貪欲なやつめ。」と門番は言う。


「みんなが掟を求めて努力しているのに、どうして長年のあいだ私以外に誰も門へ入ることを求めなかったのですか。」


 門番は男がすでに臨終の際にいることを知り、消えゆく聴力にまだ感知できるよう男にうなりかける。


「ここはお前以外のやつは誰も入れなかったのだ。この入口はお前だけのために作られたものだったからな。おれはもう門を閉めに行く。」


 森本誠一訳『掟を前に(掟の門)』より引用

それが万人のための掟ではなく、ただ自分のための掟だと知る事。それがカフカにとっての救済なのだろうか。この掌篇は別役実のエッセイで知った。今でも何を言おうとした短編なのか俺にはわからないが、ただ自分を越えて大いなるものを感知した瞬間を想像する時に、この掌篇を思い出す、ことがある。

 奇妙な話である。ただ単に皮肉な話として見過ごせないなにかがあるような気がする。この背後に、厳然として神学的世界が存在し、その抜き差しならない構図が、我々を粛然とさせるのかもしれない。ともかくこの門番と男のやりとりは、或る巨大なるものの存在の極く末端における出来事のように見受けられる。つまり、男をしてかくも執拗に掟の門にこだわり続けさせるものと、門番をしてかくも執拗に入門の許可を拒絶させるものが、そこに存在し、にもかかわらず、二人はそれを全く沈黙させたまま、ほとんど関係のないことについてのやりとりで終始しているのである(中略)。
 私はここに、カフカの、神学的世界における原初の風景が構図されているように思えるのである。「人間は神の前で間違えている。神が間違えている時でもそうである」というカフカの絶望的な決意は、この構図の中で自らをイロニカルに確定するためのものに違いない(後略)
 別役実著「馬に乗った丹下左膳」より一部引用

こんなことは便所の壁にか神の御前でしか言えないのだが、これでも俺は誠実に生きようと努めてきた。誰でも何十年かを生きてくれば、「これだけは譲れない」という、自分を支える軸のようなものがあることに気がついているだろう。それが実際に何なのかがわからない人でさえも「これだけは譲れない」というものがあることだけは判るだろう。たとえそれを、失う時に初めて気づいたのだとしても。
誠実に生きると言っても、それは結局のところ「自分自身のため」だったと思う。誰かのために誠実であろうとしたことは、きっとそれほどにはなかったと思う。そうであれば、それは「誠実に生きてきた」だなんて言えないのかも知れないのだが。
誠実であることが、自分を支える誰かをまきぞえにしていない訳はないだろう。何にせよ、一人で生きていくことなんて出来ないのだ。それが悲しい事かどうかはおいておく。


今はかけがえのない自分の時間で、それはもう終る。