日曜日の食卓で

とりとめなのない話が書かれていると思います

サッカー勝ったね

hirofmix2005-06-08

美しいものが世界にあふれればあふれるほど
醜いものもまた、世界にあふれる


みるみると美しさが増していくほど
醜さもまたみるみると増していく


そんなことを思いついた夜。


昨日読んでいた雑誌に、僕が以前から思っていた事を語った、マザーテレサの言葉が引用されていた。

如何なる大海も一滴の水より成る。「世界平和」の為に働こうとするな。それより、自分のすぐ周りにいる人々を幸せにする様、最大の努力をしなさい。世界中の人々が、皆その様に努力をすれば、平和は自ずと訪れる。あなたの目の前にいる人々を大切にしなさい。
 *季刊「考える人」2003年夏号131ページ 吉成真由美「やわらかな脳」より


サッカーうるさいな。

小さな家が

ここしばらく「小さな家」がマイブームになっている。
五十代半ばにでもなったら、今の借家ではない、一軒家にでも住めたらな……などと夢想したりする。


本当は、別に、一軒家でなくてもいいのだ。
以前から気になっていて、終の住み処としていつも思いつくのが、ススキノの〇番地にあるこんな公団住宅だ。昭和三十三年十一月から賃貸開始というのだから凄い。今ここに、一体誰が住んでいるのだろう。
こんなところに住んで、数少ない友達の家へたまに遊びにいったり、いきつけの喫茶店を作って、判で押したように同じ午後のひと時を珈琲を飲みにいったり、週に一度ぐらいは軽く飲みに出て店主と談笑したり、そんな風にして、深夜のざわめきと朝の静けさを窓から眺めながら、一人ひっそりと暮らしていけたなら……そう夢想するのは、とても心休まる遊びだ。
ただ、ステレオシステムの事を考えると、アパートやマンションというのはちょっと難しい。やはり一戸建てでなくては、周囲に迷惑をかけてしまうのではないか。


けれども、新しい家を建てようとはとても思えない。それは今の僕にはひどく重荷だ。新築住宅の晴れがましさを想像すると、何となく自分に不似合いな気がして落ち着かないのだ。例えばガタが来た築三十年以上の中古住宅、なんていうのが望ましい。中古住宅には「汚れてもかまわない」という安逸さがある。これが三部屋程度の平屋であればなお良い。
中古住宅で思い出すのが、僕が子どもの時分によくあった三角屋根のブロック住宅だ。あの三角屋根は、冬季間の積雪を防ぐのが目的で、またブロック建築は低コストだったこともあって、ひと頃は北海道のどの町でもたやすく見る事が出来た。例えば僕が思いだすのは、北見市小泉の表通りに立ち並ぶ三角屋根の家並みだ。昔その内の一軒に母親の無二の親友が暮らしていて、小さかった僕も何度か遊びに行った。高校時代にほんの少しだけつきあった彼女もその近辺に住んでいた。
ああいう家だったら、住んでみたいと思う。何なら壁ぐらいペンキ塗りしてもいい。


最近は「極小住宅」とかがブームのようで、加えてテレビ番組の「ビフォア・アフター」なんかのリフォームブーム、それに収納ブーム(というのかな)のせいで、やけにギミックにあふれたデザイン住宅がテレビや住宅雑誌に飾られている。特に「ビフォア・アフター」は見る度に失笑してしまうことが多い。「何もそんな棚作らなくても…」と思うことが二度や三度じゃない。
しかし家というのはつくづく難しいと思う。あまりに設計家や、家主の個性があふれている住宅というのは、何と云うか、ひどく居心地が悪そうな気がしてならない。時間の中で人は変わっていくものだから、住み続ける内にその「個性」がうざったくなっては来ないのだろうか。いや、そういう住む人を窮屈にしてしまう家を作ってしまうのが、そもそも間違いなのかも知れないが。けれどもデザイン住宅の写真を見るにつけ「こりゃ住めねぇよ…」といつも思う。


と、云う訳で、今度書店に行ったら住宅の本を軽く物色しようと思っているのだが……何と云うか、少し膝を抱えて、焚き火にでもあたるようにして暮らせる家というのは、どうやって見つける(作る)ことができるのだろうか。そもそも家なんて買えるのか俺。
(ちなみに上の写真は、建築家中村好文が評論家加藤典洋の別荘として浅間山そばに建てた家の、暖炉そばを写したものである。新潮社「考える人」ホームページより引用した)